
大原焼の歴史
大原焼が
誕生するまで
備中国南西部の土器
マキサヤ遺跡(縄文時代)から大原焼の起源まで

縄文土器(縄文後期)発掘現場(2016年)
(マキサヤ遺跡/里庄町新庄)

縄文土器
(マキサヤ遺跡出土)

弥生土器
(マキサヤ遺跡出土)

瓦質土器
(里見山中遺跡出土 )

大原焼の
起源から
現在まで
大原焼の歴史
大原焼の起源と歴史
■ 戦国
大原焼の起源は行基説、弘法大師説など諸説ありますが、もっとも確実な事例は里見山中遺跡から出土した窯跡が16世紀後葉〜17世紀前葉と確認され、その周辺から鍋や擂鉢や内耳鍋などが大量に出土しています。この地での土器生産は15世紀後半ごろから始まったのではないかと考えています。
■ 江戸

宝殿(祠) 1699(元禄12)年
□ 里見山中遺跡(里庄町里見)
2013(平成24)年に発掘調査され、窯跡や鍋・擂鉢・内耳鍋などの瓦質土器が出土する(16世紀後葉〜17世紀前葉)
□ 記入銘最古の大原焼
元禄十二年十二月十九日の銘の宝殿「祠」
□ 産業としての大原焼が史誌に初出
1739(元文4) 年『備陽国誌』に砂鍋(ほうろく)が口林村(現里庄町里見)の産業になっていると記されています。
まだ、「大原焼」の名称はない。

□ 大原焼と大原村(口林村 )の様子
1790年(寛政2年)頃 鴨方の西山拙斎が大原焼の盛んな情景を漢詩に詠む。
大原村を過る 村民は陶器を造り 業と為す
陶舎は 相連なり 幾窯の 烟
孤村は秋色 自ずから 蕭然たり
瓦盆の良楛 君問うを休めよ
恐らくは 風流許子の 賢有らん
儒学者 西山拙斎(1735〜1798)漢詩
■明治

手あぶり (明治〜大正時代)

□ 大原焼の呼称(初出)
1878年(明治11)「岡山県地誌略二備中ノ部」(岡山県師範学校蔵版)に、[浅口郡の物産ハ、綿、綿木、酒、醤油、素麺、乾温、大原焼・・・ナリ]とあり、はじめて「大原焼」と記されています。
□ 大原焼の工人
1884年(明治17) には窯数11、工人350余人が従事(才の脇地区含む)していた記録がある。農間余業として「半農半工」の生活であり、全戸(明治5年の壬申戸籍では212戸)が大原焼に関係しているとも言えるほどでした。専業者は20名余りと考えられます。
□ 大原焼の種類
ほうろくをはじめ、鍋、土釜(羽釜)、土瓶、かまど(くど)等の日用品が主であり、他に置物、奉納物、細工物など多様な製品が作られていました。
□ 大原焼の出荷高
1983年(明治26)頃『岡山県管内諸物産高取調書』によると大原焼の出荷高は備前の1.5倍ほどあったそうです。
供養塔五重塔(明治44年)妹尾石平 高さ3.2m
■ 大正・昭和

2連かまど(くど)西崎正士

鬼面風炉釜(昭和50年代)妹尾節子

□ 大原焼の最盛期
明治になり江戸期の規制を脱して、持船が一気に増加し、自立へ向かう。船行組(問屋)と窯組の分業体制が確立し、隆盛期を迎えて産出量も多くなっていく。
明治の中頃になると産業や生活文化の近代化、恐慌や不況等により大原焼の需要が減退する。
大原窯は否応なく工夫・改善を迫られ、新製品の開発や生き残りをかけての競争が功を奏する。明治後期から大正前期が大原焼の最盛期と言われている。
□ 伝統的大原焼の終焉
大正になり、生活改善運動による台所改善がすすむと、都市部では台所のかまどが消えはじめ、関東大震災後、加速する。昭和になると大原焼の需要の減少が始まる。戦後しばらく「火の器」はよく売れた。混乱期が終わり、地方でも台所のかまどの薪の火がLPガスへと代わり、高度経済成長の進行とともに、大原焼の需要は激減する。終戦直後50戸程あった製造戸数も昭和30年代には10戸程になる。40年代には5戸、50年代に2戸となり、1985年(昭和60)伝統的大原焼はその火を消します。
□ 新しい大原焼の模索
1970(昭和45)年ごろから、一人の陶工が焼締陶への変容を模索し成功する。新しい大原焼が生まれる。
バブルの崩壊後、経済不況がはじまり、さらに焼き物不況も重さなり、2010(平成22)に閉窯する。
大原焼の全てが終焉を迎えた。
壺(焼締陶/炻器)(昭和 60年代)殿山窯
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