
大原焼とは
「火の器」
大原焼の
特色
伝統的大原焼の特色は一口で言えば「火の器」であり、無釉の土師質・瓦質土器です。そして、生活雑器というより生活必需品の性格が強く、その製品は民生用から工業用に及んでいました。
生活の表舞台には出にくい「火の器」ですが、作り出された製品は火に強く、薄くて(軽くて熱効率がよい )丈夫で、なおかつ安価でした。形も簡素で健康的であり、《用の美》を備えた生活用具と言えます。
土器の原料である粘土は大原地内や隣接地から良質なものが採掘でき、燃料も近くにあったと考えられます。さらに、大原の地は近世(江戸時代)以前から、海岸沿いを進む道が通って人が行き来していたと考えられています。村の西の峠を越えれば海でした。交通の利便性がよかったことも大きく発展する条件が整っていました。軽くて丈夫なことは輸送にも適しており、近くの港(富岡港=現在の笠岡市)まで運び、船で瀬戸内海沿岸各地にまで出かけ、販路を拡大し、江戸末期から明治、大正と隆盛を誇りました。
大原焼の器種としては焙烙(ほうろく)や土瓶(どびん)、土釜(どがま)、火鉢、かまど(くど)、こんろ、風炉、火消壺など”火の器”を主力に、甕(かめ)、壺、灯篭、弁柄コーラ(弁柄坩堝)なども製出しました。併せて恵比寿大黒などの縁起物、土面子や人形などの玩具、仏像や狛犬や宝殿(祠)や供養塔など祭祀関係にも優れた物を遺しています。さらに漁具や瓦や土管など時代の変化と需要に即応した多種多様なやきものを生み出しています。

土釜 (里庄町歴史民俗資料館蔵)

羽土瓶 (里庄町歴史民俗資料館蔵)
大原焼のはじまりは行基説や弘法説など諸説ありますが、もっとも確実な事例は「里見山中遺跡」の発掘調査です。ただ、この地で土器生産の萌芽は15世紀後半ではないかと考えられています。
記入銘最古の大原焼は1699(元禄12)年銘の宝殿(祠)です。口林村(現里庄町里見)の産業として、ほうろく(砂鍋)が岡山藩の地誌『備陽国志 』に登場するのが1739(元文4)年です。しかし、まだ、「大原焼」の名称はありません。名称の初出は1878(明治11)年の『岡山県地誌略二備中ノ部』です。
明治になり江戸時代の規制がなくなると一気に持ち船が増え、製出した品物は近くの富岡の港へ運び、船で出荷されました。
明治2年(1869)の『浅口郡口林村大原抱碌商他所行願』には船行人によって瀬戸内沿岸諸国(安芸・周防・長門・伊豫・阿波・讃岐・播磨・摂津など)へ運ばれ、広く流通していた様子が記されています。明治期後半には、西は九州の豊前、豊後や 東は紀伊まで船行した記録が残っています。
火に強く、薄くて丈夫な大原焼の評価は高まり、生活必需品として長く愛用されていました。
大原焼の最盛期は明治後期から大正前期で、里見村(現里庄町)の 主要産業の1つとして町の発展に大きな役割を果たしました 。明治の文明開化がすすみ、大正時代になり、台所改善運動が始まると、かまどが都市から徐々に姿を消していきます。同時に、大原焼の需要も減少していきます。
戦後しばらくは瓦質土器であるコンロやかまど(くど)、土釜(羽釜)やほうろくなど「火の器」が飛ぶように売れました。しかし、戦後の混乱期も過ぎて、地方の台所の薪の火がLPガスの普及により姿を消すと需要が激減し、生産者は廃業や仕事替えを余儀なくされていきます。高度経済成長が追い打ちをかけます。
伝統的大原焼は工芸品としてのはぜ壺や茶釜などが細々と生産を続けますが、昭和60年(1985)その窯の火は消えます。
一方、1970(昭和45)年頃から一人の陶工が土器から焼締陶への変容を模索し、成功します。しかし、バブルの崩壊後、全国的なやきもの不況もあり、衰退を余儀なくされ、2010(平成23)年に閉窯します。ここに、大原焼の終焉を迎えます。
「大原焼」の名称が史誌に初出するのは1878年(明治11)です。
やきもので「○○焼」という呼び方があります。名称の付け方は自由ですが、他の窯場との違いや特徴、あるいは区別するためにいろいろな名称がつけられます。
古い窯場の多くは次のような点から命名されているようです。
1:産地(焼かれた土地)の名前
2:伝統的な製法である(様式や技法の種類や釉の種類など)
3:産地の近辺で採れた原料を使って焼かれたやきものである
しかし、現在は産地や製法などに関係なく、命名されることが多いようです。
そこで、大原焼プロジェクトでは「伝統的大原焼」とは伝統的な製法により里庄近辺で採取した土を使用し、里庄町内で焼成したものと定義しました。
「新しい大原焼」とは製法や粘土の産地に関わらず、里庄町内(大原地区)で焼かれたやきものと定義しました。
私達は 両方を《大原焼》と呼んでいます。
「伝統的大原焼と新しい大原焼」
伝統的大原焼
新しい大原焼
の定義
「柳井宗悦 バーナード・リーチ 浜田庄司ら 大原窯来訪」
大原焼と
民芸運動
昭和8年、大原焼が民芸の対象として最初に取り上げられたのは日本民芸協会機関誌『民芸』第32号であり、誌上に土瓶を「愛すべきもの」と記している。
ところが、昭和22年『岡山県民芸協会報』第2号では大原の土瓶と火鉢について「土瓶は雲母でピカピカさせた神経質なものだ。(中略)火鉢は肌に皺文があってそれに金粉がふきつけてある。この美術的努力は凄惨で気味が悪い」と誌上で大きな失望を漏らしている。
翌年、岡山県民芸協会報第4号では失望の大原窯に対し、外村氏等の民芸指導が行われ、何名かの陶工が受容の方向へ傾いていることが記されている。
そして、昭和25年『山陽民芸』第12号で大原のはぜ壺が民芸品として初めて絶賛される。
はぜ壺に続いて昭和27年、土瓶が高い賛辞を受ける。「・・大原焼は古く確かな型に依っているためにおおらかで立派である。腰のツバも熱を逃がさない合理性と同時に美しさを加えている。蓋も口も甚だ佳い」『岡山県の民芸』外村吉之介著と書かれている。

湯沸かし 小野筆三郎作 大正時代 (個人蔵)
昭和28年は大原窯が公式に民芸品産地として評価された年で、民芸運動創始者の柳井宗悦、陶芸家のバーナード・リーチ、浜田庄司や河井寛次郎、外村吉之介各氏と大原陶工達との座談会が徳山蛙生宅で持たれた。作品評は「3年前の時と比べ、著しく作品が変わって、はなはだ親しみにとぼしい」としながらも佐藤尚海(当時物故)が作ったものを「一番素敵な土瓶や土鍋」と『山陽民芸』(臨時号)で評する。
この頃が大原窯の民芸運動のピークだったようで「瓦器以外への歩みは一さい迷いに過ぎない」とする民芸指導に対して、実益を重んじ、絶えず新製品の開発で存続してきた窯場の伝統がやがて衝突することになる。

昭和42年、外村吉之介氏は『岡山の民芸』で「ハゼ壺は特筆にあたいする。さながら遼時代の鶏冠壺の姿となって立派である。(中略)胡麻炒りのとり手は見据えると絶品で生きている。宝殿は家形の釣合がよく、飾りけのない佳品だ」と評価するが、すでにこのとき、大原窯は壊滅状態にあった。氏の言葉は亡びゆくものへ手向けられた挽歌であろうか。(略記)
以上 里庄町刊(1989)「大原焼」坂本輝正著より抜粋
はぜ壺 妹尾蕾 作(里庄町歴史民俗資料館蔵)