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大原焼

大原焼は、ほうろく(炮烙)・かまど(竈)・こんろ(焜炉)・土鍋・土釜・火消壺など「火の器」を主力に土器の産地として発展し、400年以上続きました。

《はじまり》

土器生産の萌芽は15世紀後半ではないかと説く研究者もいますが、確実な事例は里見山中遺跡の発掘調査により、工人たちが営んでいた窯跡が16世紀後葉から17世紀前葉と確認され、周辺から瓦質土器が大量に出土しました。

プロジェクトでは大原焼のルーツと考えています。

記入銘最古の大原焼は元禄十二年(1699)銘の宝殿(小祠)があります。

 

《土器の里・大原》

土器の里、大原は備中国の南西部にある口林村(現岡山県浅口郡里庄町大字里見)にありました。

大原には古墳群があり、古くからの往来も通り、瀬戸内海が近くにあって交通の利便性にすぐれていました。また、良質で豊富な原料と燃料を地元で入手することができるなどの好条件がそろっていました。

 

《大原焼の発展》

江戸初期には、村人たちが半農半工で生産した土器を船で他国にも移出し、江戸中期には砂鍋(ほうろく)が村の産業として認知されるまでになりました。

品々は風雅で、火に強く、丈夫で安価であると評判を得て、販路を拡大し瀬戸内海沿岸一帯に流通しました。

《大原焼の隆盛》

江戸末期には工人と船行人(問屋)の分業制が確立、明治中期には大原焼従事者が350余名、大原村の持ち船も19隻あったと記されています。

大原焼の最盛期は明治後期から大正前期といわれ、農業以外では里庄村(現里庄町)の主要産業でした。

 

《大原焼の衰退・終焉》

戦後のエネルギー革命の急激な進展により生活様式が激変、縄文時代までつながる大原焼の「火の器」の長い歴史は30数年前に終焉を迎えました。そして、最後の窯元も10数年前に閉窯し、すべての大原焼が幕を閉じました。

今では、往時の面影は残っていません。

大原焼の歴史と文化を次世代に

​《大原焼プロジェクト》

大原焼プロジェクトは2015(平成27)年、大原焼の調査、保存、記録をすると共に、その歴史や文化を次世代に引き継ぎたいと活動を始めました。

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