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大原焼の歴史と文化を次世代に

 大原焼の里(現在の岡山県浅口郡里庄町里見)は備中国の南西部、瀬戸内海に近い村にありました。

 大原の地での土器生産の萌芽は15世紀後半頃ではないかと考えられています。最も確実な事例は2013(平成25)年に発掘調査された「里見山中遺跡」(岡山県浅口郡里庄町大字里見字山中)から出土した窯跡が、放射性炭素年代測定(AMS測定)の結果、16世紀後葉〜17世紀前葉(1618±25)と確認されました。窯跡周辺から同時期と考えられる鍋や擂鉢や内耳鍋などの大量の瓦質土器が出土しました。

 記入銘最古の大原焼は1699(元禄12)年銘の宝殿(祠)があります。江戸時代中期の『備陽国志』1739(元文4)年には、ほうろく(砂鍋)が村の産業として記されています。しかし、まだ、「大原焼」という呼称はありません。江戸時代中期から後期には大原焼の品々が諸州に送りだされている様子が史誌に記されています。

 大原焼は明治になるとさらに隆盛となり、船行人によって瀬戸内沿岸諸国へ運ばれ広く流通していました。そんな中で他の産地の製品と差別化するために「大原焼」という名称が使われるようになったと考えられます。大原焼の最盛期は明治後期から大正前期といわれ、里庄村(現里庄町)の主要産業の1つでした。

 しかし、明治の文明開化とともに、生活様式が近代化され、大正時代になると台所改善がすすみ、かまどが使われなくなりました。徐々に大原焼の需要も減少していきます。戦後の一時期需要も回復しますが、地方の台所のかまどの薪の火がLPガスや電気へと急激に変化し、高度経済成長とともに需要は激減しました。そして、伝統的大原焼は1985(昭和60)年に終焉を迎えます。1970(昭和45)年頃、土器から焼締陶に変容した一軒の窯元も2010(平成22)年に閉窯します。現在は往時を偲ぶ窯跡などを見ることはできません。

 大原焼プロジェクトはその痕跡を調査、記録すると共に大原焼の歴史や文化から多くのことを学び、その「心と技」を次世代に引き継ぎたいと活動を始めました。

​ 大原焼プロジェクト

里庄の散歩みち

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